ニューヨークの凍てつく冬。

数日前からニューヨークは大寒波にみまわれ、連日公共交通機関が麻痺しているというニュースが流れていた。ラッシュアワーの地下鉄に長く閉じ込められ、疲れ果てた顔で出社してきた同僚たちを見ると、つくづく車で通勤して良かったと思う日々だった。

だが、あの日は朝からついてなかった。
大寒波で底冷えするそんな日は、皆考えることが同じなのか、いつもより時間をかけて朝から熱いシャワーを浴び、冷えた身体を温めるのだ。しかし、年代物のアパートの地下室で轟音を響かせる古いボイラーも地下鉄同様麻痺してしまい、途中から湯が出なくなってしまった。

WTF?!(なんってこった)」

それまでのすこぶる上機嫌な目覚めのシャワーは、いきなり寒中の滝行に変わった。あるいは、これまでの非行がすべて暴かれた悪人が泡にまみれた裸体で罰を受けるシュールなSMショーのようだ。冷水シャワーで泡を落とし、バスローブを纏い、震えながら拷問室から逃げ出すように部屋に戻れば、日によって温度が違う気まぐれな暖房は、運悪く、冷えた身体をさらに冷やすような微妙な温度の風を送風口から力なく送り出していた。ドライヤーで髪を乾かしながら暖をとり、結露に曇る窓を手で拭い外を見おろすと夜のうちに積ったのかセントラルパークは白く雪に覆われ、マンホールからはセントラルヒーティングの蒸気が一段と白く高く立ち上っていた。

出鼻をくじかれた感はあったが、気がつけば会社へ向かう時間となっていた。気を取り直してアパート地下の駐車場に向かい、いつものように鍵を挿しまわしてみるがエンジンがかからない。どうやらバッテリーが上がってしまったらしい。ロードサービスを呼ぶ時間はもちろんない。ジャンプスタートするにも忙しいそんな時間に駐車場に現れる人影もなく、普段は歩いては出ない駐車場の出口へと向かい、係員のカルロスと言葉を交わす。

「やあ、どうした?珍しいところから出てきたね」
「バッテリーが上がったんだけど、ジャンプアップする時間がなくてね」
「ああ、そういうことか。今日、君で2人目だよ。あとでジャンプアップしといてやるよ」
「サンキュー」
「今日もクイーンズの大雪で地下鉄が止まってるらしいぜ、バスで行きな」
「サンキュー。じゃあね」

こういう日はタクシーがつかまらない。例え、乗れたとしても渋滞にはまり、ぼったくられることが多い。ハーレムを通ってやってくるバスは、いつも混んでいて、最寄のバス停に着く頃には空席などないのが当たり前だったが、こういう日は立つのもままならないほどさらに混みあう。やっと乗れたバスの中は押し合いへし合い、皆、仏頂面で異様な雰囲気をかもし出していた。20分ほど我慢したが、案の定バスは渋滞にはまり動かなくなってしまった。数ブロック先の会社まで歩いたほうがバスより早く着く。そう思い立ち、バスを降りた。吹き荒れるビル風に負けじと腰を屈めて歩く道行く人の表情も灰色の空のごとく暗く、私もどんよりした気分で歩き始めた。

会社から数ブロック離れた角にあるドリンクスタンドでホットサイダーをいつものようにテイクアウトし、カウンターの中から聞こえてくる音楽になんとなく耳を傾けた。なんとも心地よいジャズボーカルの調べに思わず聞き入る。

帝女エラ・フィッツジェラルドの寒い冬をも包み込むような圧倒的な暖い歌声と熱くて甘酸っぱいホットサイダーのなんともいえない相乗効果でそれまでのどんよりした気分が温められた。朝から再三ついていなかったが、そんなことは取るに足らない出来事が数回重なっただけの普段通りの冬の朝に思えてきた。毎日視界には入るが寒さの度合いを測るために見る以外はさほど気に留めたことのないマンホールから噴出す蒸気も愛おしく感じる。これもニューヨークの冬の風物詩だったんだ、と。

「その曲すごくいいね」
「だろ?エラのAll the Things You Areだよ」
「なんか暖かい気分になってきたよ」
「歌詞もいいんだぜ。希望を感じる」
「CD買って帰ろうかな」
「じゃあ、このDC貸してあげるよ。超クールだぜ」
「サンキュー」

このドリンクスタンドには当時働いていた会社に就職して以来3年、ほぼ毎日通っていたが、店員とちゃんとした会話をしたのはその日が初めてだった。いつもは「ホットサイダーひとつ」、「ほら、2ドルだ」と、そっけない会話を交わしていただけだったが、その日を境に会話をするようになった。店員の名は、パトリック。彼の名前を初めて知ったのもその日だった。

次の朝、いつものように駐車場に行き、エンジンをかけたところで、バッテリーが上がっていたことを思い出した。私が帰宅する前にカルロスがバッテリーを直してくれていたようだ。外は凍てつく冬の最中には人の温かさが嬉しい。ジャズを聴きながらの通勤も最高にクールだ。

その日以来、キーンと身が凍りそうな冬の朝はジャズボーカルを聞くようになった。昔からジャズは季節や種類を問わず好きだが、特に冬はスタンダードなジャズボーカルをよく聞く。冬の寒い空気に、温かく厚みのある歌声が似合うのだ。

エラやビリー・ホリデイはこの上なく冬の寒い朝にマッチするのだが、ハスキーなアニータ・オデイもヘレン・メリルも、バロックなニーナ・シモーンも、スモーキーなホリー・コールもノラ・ジョーンズも素晴らしい。女性ボーカルの包容力が、朝の寒い空気を暖める。男性ボーカルは、夜、暖をとりながら赤ワインを嗜みながら聞くのが良い。

あの凍てつくニューヨークの冬の朝以来、ところ変われど冬の朝はエラの暖かい歌声で一日が始まる。