マサチューセッツ州ケープコッドにつづく国道6号線を通るたびにわくわくする。思い出がよみがえり、当時にタイムスリップした気分になるからだ。
私はこの細い田舎へと続く古い道をMy Little Highway(マイリトル ハイウェイ)と呼んでいる。

初めてアメリカを訪れ、この道を通ったのは高校1年の夏だった。
日本のつまらない高校生活に嫌気がさし留学に踏み切ったのだが、9月の新学期までに英語環境に慣れるため約1ヵ月、学生課の先生の家にホームステイすることになった。
学校はボストンから40分ほど東北に車を走らせた小さな町にあるのだが、その先生は夏の間、学校から4時間ほど離れた州の南に折り曲げた腕のように突き出た半島にある別荘で過ごすのが習慣だった。

7月のある日、私はローガン空港に降り立った。当時は直行便などなく、飛行機トラブルでロサンゼルスに1泊し、シカゴに飛び、ボストン行きに乗り換え、ほぼ2日がかりで目的地に到着したのは昼を少し過ぎた頃だった。
当時はスーツケースの重量制限などあってないようなもので、重量オーバーの大きなスーツケースを2個カートに乗せ、ゲートを出たところで誰もが振り返って見るような「Welcome!」と書かれたカラフルな特大プラカードをブンブン振るおばさんが大きな声で私の名前を呼んでいた。

そのプラカードに吸い寄せられるように、彼女のもとへ行くと

「ハーイ!これだけ派手なプラカードならどんなに時差ぼけでも見逃さないでしょ!」

と自慢げにプラカードを一振りし、とびきりの笑顔で

「ようこそ、アメリカへ!長旅お疲れ様!これからあなたが帰国するまで私があなたのパートナーよ。なんでも聞いてね!私の家まで、あと4時間。まだまだ長い道のりよ」

タンクトップに半パン、ビーチサンダル、そして、小さなポシェットの斜めがけという、今でも思い出すと思わず笑いが込上げてくるいでたちの彼女の名はメアリー。

とにかく明るくパワフルなメアリーと自己紹介をしながら駐車場へ向かった。アメリカらしい大きなシボレーのビンテージカーに荷物を載せ、空港の駐車場を出た。レンガ造りのいかにも歴史の街です!といわんばかりのボストンの中心街を抜け、ハイウェイをしばらく走ると、どんどん長閑な景色に変わり、海と雑木林のあいだに昔映画で見た灰色の外壁の羽目板と切妻屋根が特徴のケープコッド様式と呼ばれる可愛い家が見え始めた。

やっぱり、アメリカって大きいんだ…。
長い空旅を経て、やっとアメリカに降り立ったが、更に車での長旅。なかなか身体を投げ出し寝転がるチャンスが訪れない。寝不足で疲れも極地だったが、だんだん都会から変わりゆく長閑な景色に浮腫んだ気分も癒されていく気がした。「ディナーは旦那の自慢料理よ。おなかをすかせて期待しててね」

ケープコッドは、アメリカ人が憧れる景勝地が集まる東部の高級リゾート地だという説明を聞きながら、政治家や芸能人の別送が軒を連ねるハイアニスで休憩をとり、遠浅の青いビーチが防風林の隙間から見え隠れする細い国道を通り、やっとメアリーの別送があるブリュースターに着いたのは痛いほどに照り付けていた眩しい太陽が沈みかけた頃だった。

ケープコッド半島は、左手を横に伸ばし肘から先を90度上に曲げた腕のような形をしているため、よくガッツポーズをする腕にたとえられる。ブリュースターはちょうど腕が折れ曲がる肘の内側の部分にある小さな町だ。国道6号線はケープコッドの真ん中を端から端まで通り、半島に点在する町に行くには、目的地の標識でインターを降りると、さらに細い田舎道に繋がり目的地に導いてくれる。

ブリュースターという標識でインターを降り、それに繋がるさらに細い道路を10分ほど走ると、街で一番の大通りが現れる。小さな町に入るたびに名称が変わる海辺の目抜き通りは、ブリュースターではメインストリートと呼ばれ、隣町ではオールド・キングス・ハイウェイという名前に変わる。

メインストリートという割には細くなんの変哲もない長閑な田舎道の脇に、小さなケープコッド様式の家がぽつぽつと建ち並び、名物の灯台やキャプテンズハウスと呼ばれるかつての捕鯨船船長の大邸宅がそれほど遠くない海沿いに時々現れる。ケープコッド周辺には捕鯨で栄えた町が多く、ブリュースターも例外にもれず、いたるところにその当時の余韻を残している。

ブリュースターは絵に描いたようなケープコッドの田舎町だ。1万人にも満たない人口のほとんどは顔なじみで、町民の集いの場といえば、ジェネラルストアという田舎町によくあるちょっとした生活雑貨や食料品を置いたよろず屋的な店の軒先のベンチか、メインストリート沿いに数件ある何のしゃれっ気のないバーのみだ。初めて訪れてからかなり長い年月が流れたが、今尚変わることなく平和な田舎町がブリュースターなのだ。野球やフットボールの試合がある日は、バーに行くと馴染みの顔ぶれが集いビール片手にフライドチキンなどをほおばりながら観戦している。どの席に座っても、歓迎ムードで迎え入れてくれ、一緒にワイワイ騒いでくれる。記憶を裏切らない風景、温かく迎え入れてくれる人々、町に流れるゆったりとした時間と潮風。この普遍の田舎加減がなんとも心地よい。もちろん、この上なく安全で、この辺りの人たちは出かけるときも鍵をかけることもない。

当時は、西海岸を舞台にリッチな高校生たちがゴージャスな青春ライフを繰り広げるテレビドラマが流行っていて、アメリカに行けば当然そういう生活が遅れるのだろうと夢見ていたが、初めて訪れたアメリカは、それとはかけ離れた田舎暮らしだった。しかし、その田舎町は自然と遊ぶ楽しさや、何もないから自分で作り出す歓びを教えてくれた。もちろん、車の免許を持たない田舎町の若者の交通手段といえば、王道のマウンテンバイクかローラーブレードだった。たいていの地元の学生は昼間アルバイトをしていたため、私と遊んでくれるのは近所の子供たちや知り合いづてに知り合った夏の間だけバカンスを楽しみにケープコッドにやってきたリッチなよそ者たちだった。

毎日、健康的に早起きし、クランベリーやブルーベリーを摘んではマフィンやジュースを作ったり、海辺の遊歩道を乗馬で駆け抜けたり、近くのポイントでサーフィンをしたり、朝露にぬれた芝生を裸足で犬を追かけまわしたり、海や庭先でキャンプやバーベキューをしたり、日本では体験できないような夢のような日々を過ごした。

メアリーが作ったルールは1つ。それは、日付が変わるまでに帰ればいいというなんともゆるい門限だった。街灯もないメインストリートは、夜になると当たり前のように真っ暗になり、あまり活動的に遊ぶ雰囲気でもなかったが、それでも近所の友達やメアリーと庭の木の枝につるされたハンモックに寝転がり流れ星の数を数えたり、他愛のない話に花を咲かせたり、ゆっくり時間が流れるのを楽しんだ。日本では毎日学校帰りに塾に寄り帰宅時間が門限で、週末友達と出かけるのにも小言を言われるような堅苦しい生活を送っていた私は、時間の使い方に慣れるまで戸惑った。

ブリュースターには、もちろん映画館やショッピングモールといった若者が楽しめる場所はなく、週末にはるとメアリーの知り合いの地元の高校生たちが、車で遠出し映画館や友達の家に連れて行ってくれた。その度に、大人数で出かけられるように、近所から借りてきたという軽トラックの荷台にまるで売りに出される家畜のように乗せられ、小さな町から少し大きな町までMy Little Highwayを往復した。

夏が終わりケープコッドでの楽しい暮らしに一旦別れを告げたが、事あるごとにケープコッドのメアリー宅を訪れた。メアリーは学校で人気が高く、彼女の控室はいつも談笑する生徒たちであふれていた。アメリカの運転年齢は16歳だ。免許を取りたてのルームメイトとの始めてのドライブの目的地もブリュースターのメアリーの家だった。ある週末、免許取得を祝うために、メアリーは先回りしブリュースターでバーベキューパーティを開いてくれた。金曜の放課後、いつもの仲良しメンバーたちと学校から路線バスでボストンに行き、レンタカー屋で車を借りた。その頃はまだナビなどこの世に存在せず、車のバックシートに学校の図書館でコピーしたランドマクナリーの大きなロードマップを広げ、「あと15分ぐらい走れば左に曲がる出口が見えるはず」、「いや、違うね。あと30分は絶対かかる!」などと、適当なナビごっこをしたものだった。私たちの学校は隣のニューハンプシャー州の境に近い小さな町にあり、学校が面する通りは町一番の繁華街で、名前もメインストリートだったが、ブリュースターより少しだけ店が多いだけの田舎道だった。田舎町の学生だった私たちの唯一の愉しみは週末にボストンに遊びにいくこととブリュースターのメアリーの家に行くことだった。

彼らと初めてケープコッドを訪れた際に、ケープコッドに続くこの国道6号線を“My Little Highway”と名付けた。あの頃私たちは、クラスメイトの運転する車のバックシートで、当時流行っていた曲がラジオから流れてくるのにあわせて大声で歌いながら、この細い国道を行ったりきたりした。

ようやく遅れて免許を取ったのは大学に入った年だった。メアリーは私たちが卒業した年に退職しブリュースターに移り住んだ。そして、出会ってからかなりの時間が過ぎ、お互いの容貌が変わっても家族ぐるみの付き合いは続いており、新たな思い出を紡いでいる。そして、今も変わらずブリュースターのメアリーを訪れら際は、大声で歌いながら“My little highway”を走るのだ。

今も昔も、“My little highway”は色褪せない思い出の詰まった楽しい半島へと導いてくれるタイムマシンのような不思議な道なのだ。